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もしかして発達グレー研究所~凸凹ハートの幸せを考えるブログ by QOLT

なじめない、生きにくい。そんな子達の青い鳥ドコー?志村!後ろ後ろ!

先生!今以上に!に現状維持は入りますか

今回は、言葉、言語コミュニケーションについての考察です。


突然ですが、問題です。
100以上、というとき、
100を含むでしょうか、含まないでしょうか。

私の考えでは、含みます。

以は、示した数・状態含む。と習いますよね、学校ですと、4年生かな。

でもこれ、絶対的真理ではないです。
算数の定義、算数世界の価値観です。


人並み以上の努力をして偉くなった、そんなことをするなんて園児以下だ、いま以上の生活を望む…
すべて、人並み、園児、いま、つまり以の前に示した語を含まず「よりよい、より悪い」という意味だと思います(違う解釈もあるでしょうが)。


このように、辞書や学習の上で知る語義と、会話や本等で使われているときの意味とが違う言葉は、たくさんあります。

モヤモヤ

言葉にこだわりのある子の場合、「みんな」「友達」「仲良く」「楽しい」「頑張る」「無理」「嫌い」「好き」「大きな声で」「力を合わせて」「心をひとつに」「あとちょっと」「あと5分」
いちいちモヤモヤしがちです。

誤学習の元になる可能性の高いものがとても多いのです。
先生が何気なく話す言葉も指示も、世の中というものを誤認識したり、不信になったりするきっかけになります。


能力者ならではの苦痛

言葉へのこだわりのある子は、正確な文章か美しい文章を紡いだり、研ぎ澄まされた俳句を詠んだりすることにつながる能力者であると同時に、
言葉を信じ、言葉の価値を重く感じすぎてしまうがために、他者の言葉によるダメージを受けやすい傾向があります。

会話でも、読書でも、晴れないモヤモヤを抱えるか、自己判断マイワールド超解釈でモヤモヤを快刀乱麻したつもりになって社会通念から猛ダッシュで離れていくか…
いずれにしても、メンタルを痛めやすい特性です。

信じている存在から習ったことを細やかに、全てのことに当てはめようとする子。
大混乱を起こし、いっそもうどうにでもなれと投げやりになってイイカゲンになってしまう子。

おうちでは、気をつけて関わってあげてください。
学校の言葉を例にとり、言語表現の持つ多面性を示してあげることが有効です。

こちらからひとつひとつ教えても喜んでもらえますが、
学校の先生の言葉には特に多いですので、発見のプロセスを楽しみ、分かち合うのがおすすめです。


まさかとお思いかもしれませんが、小学校低学年の算数の授業で、大きい数、大きく書いて、という言葉にも、モヤモヤしてる子がいます。

「算数的価値観において」は、たとえば那由多不可思議無量大数であったり無限大であったりするのでしょうが、
一部の価値観や状況によっては、縦横のサイズが大きな数字を示します。


先生はこの間木+木=林ですよと仰ったのに、2+2=22にならないのはなぜなのか、静かに混乱し、算数を放棄してしまった子もいます。


どちらが間違っているということではないのです。なぞなぞなら正解なんです。


本当は、価値観と言葉・文章はセットで初めて意味を成していることがほとんどなのです。
ただ
多様な価値観の前提から全て示していくのは大変ですね。
そこで、多くの場合、人は、状況に合わせ、価値観の解釈を無意識に行っているか、てきとーにわかったふり・解釈できたふりをするかして、「価値観を共有したつもり」になっているのです。

価値観の解釈については、原則、共有しているものとして、
せいぜい別途「なぞなぞです」「算数の時間です」などと補足的に言うぐらいで基本的に端折り、言葉や文章のみに注目することで、
共有価値観に裏付けられた言語表現を相互に理解した、としているのです。


価値観の段から説明していくと、話や文章がくどくなりすぎてしまいます。
下手したら、ご先祖様の話からする必要が出てくるかも…


日本は民族的にも地政学的にも、多様な価値観の扱いに慣れる機会が少なかったと言われています。
その代わり、多数派に寄せていく能力の高い人の割合が多かったようです。
ですから、今も、農耕系らしい共有価値観信奉者が多数派として存在しているように思います。

多数派は、インパクトのある存在に寄せるのが上手な個の集まりですから、各価値観は異なりながらも比較的近いです。

このため、便宜上、価値観の前提からいちいち説明することなしに、価値観をお互いに共有できているつもりになって、言語コミュニケーションをとるのが、日常生活では都合が良いのでしょう。


多様発達(発達障害、ASD ADHD HSP LDと呼ばれる個性派達)の一部は、
「コミュニケーションが下手」と言われますが、私はそうは思いません。

下手なのではなくて、多様な言語感覚(多様な価値観の上に構築された多様な言語センス)を持っている、と言った方が実際に近いと思います。

ものを書くことを仕事とする人は別として、

人は、発達の多様性に関わらず、「言葉は価値観の上に構築されるものであり、切り離すことはできない」という感覚なしに、言葉だけをやりとりしている場合がほとんどです。


互いの価値観の説明をはしょり、言語化出来ていない「ゆらぎ」「受け取り方」に依存しすぎている傾向があるのではないでしょうか。

(自戒を多分に込めています!)


典型発達(いわゆる定型、健常)の子達に話しても全く「え?おばちゃんなんのこと?」と言われますが、響く子には響いてくれる、
「コミュニケーション下手?いや、私は思わない」
「言葉とか言語コミュニケーションって、価値観あっての言葉だよね」
「相手と価値観を共有していないのに、言葉だけやり取りするのは、難しいよね。」
「完全に理解するのはできないと私は思ってるよ」
「そこで便利なのが社会通念と、社会通念上無難な応答~」
という話題を持ちかけると、発達障害、ADHD、ASD、HSP highly sensitive person、LDと診断されている子のうちの一部の、モヤモヤを緩和できることがあります。

家族とのコミュニケーションは好きなのに、学校のあいつら全員意味不明、という子でも、落ち着いた心境で「もやっとするでしょ?これが異文化だよ、異文化とどう付き合うかが我々変人たちの人生を左右するんだよ」と示されることで、言語コミュニケーションを異文化交流としてのびのび楽しめるようになることがあります。

現地語とストレス処理さえ覚えれば、「違うって面白い」と思えるようになる子、たくさんいます。

ストレスがストレスを生むスパイラルを知り、思考への介入で緩和できるようになるだけで
体のこわばり、ぐにゃぐにゃ、眼球の固定あるいは泳ぐかんじなど、軽減されることがあります。


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