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もしかして発達グレー研究所~凸凹ハートの幸せを考えるブログ by QOLT

なじめない、生きにくい。そんな子達の青い鳥ドコー?志村!後ろ後ろ!

祖父母世代と発達障害の孫1

明治大正昭和では、無鉄砲破天荒やんちゃ、平成令和ではADHD

以前も綴りました通り、かつて発達障害という概念はありませんでした。

発達障害に限らず、人格障害も、今で言う統合失調症も(精神分裂病と呼ばれるようになる前には)、狐憑き、奇人、変人、きちが○、○ぐるいとされ、病気だとか障害だという認識はほとんどなかったのではないでしょうか。


そもそも、病名は治療のためにつけるもの。障害というタグは障害者年金など福祉にお世話になるためにつけるもの。祖父母世代の方々は、こういった身も蓋もない現実を、肌で感じています。

治療できるわけでもない、福祉のお世話になるわけでもない、なのになぜ、わざわざ障害という名前を付けるのか?不信感でいっぱいになるのも当然です。

一方で、現状、早期診断と子育てサポートを行うことで障害を緩和するという神話に基づいて、発達障害診断の裾野がものすごい勢いで広がっています。





祖父母時代にもいた発達凸凹

どんなにボケッとしていても、無口でも、騙されやすくても。

どんなに攻撃的で獰猛で猜疑的でも。

毎日車に体当たりしても。

飽くまでも「そういう子」でした。
今の言葉で言う「個性、多様性」として、認識されていました。

ヒソヒソは、されていたでしょうし、
もちろんそれなりに問題視はされていましたが、「鉄拳制裁なり、座敷牢に幽閉するなり、リアルにお灸をすえるなどして、抑え込んだりガス抜きするもの」
あるいは、
「どうしようもないもの」と見なされていました。

世間は
「嫌ならあの子に関わるな。関わる方も悪い。」
という方針で統一されておりました。

やんちゃな子についても
「おじいちゃんもお父さんもそんなかんじだった。そのうち自然に落ち着く」
頑固すぎる子は
「痛い目に遭って懲り懲りしないとわからない」
何世代もが近くで暮らして治験を蓄積していた世代は、赤ちゃんから大人になるまで生育歴を見てきて、体感していました。

問題を起こすのは周りのせいだ、などという親は、明確におかしな親とされ、不都合を強いられました。

昔の発達障害

殴って躾けました。
子供は、なにくそ!と家を飛び出して立派になりました。立派にならなくても、実家の生活が息苦しくて自立しました。生活レベルは下がっても自立のインセンティブがありました。
10代以降、身辺自立ができているけれど家で持て余した子が、家長の伝で、お寺や教会、農家や町工場に住み込みで働くといったケースもありました。
そこでは、体を使う、役割を得る、火を使う、小さなコミュニティで人と関わる、生き死にを体感する、という経験ができました。
今思えば、特性を緩和するのに最高の環境です。昔の人の知恵というもののかけがえのなさを感じ入ります。


また、戦後、お見合いにより、かなり特性をこじらせた無茶苦茶な男性でも結婚できました。
家庭の中で、妻子は、生きる知恵として、こじらせ男子の対処法を構築しました。

もちろん、家庭内暴力の連鎖など、問題もありました。
でも、暴力に寛容だった時代は、家庭内暴力が次世代に連鎖しても、まあ「みんな」こう育てられたしな、こんなもんだったしな、と許容されていました。
実際に学校に行けば何人か青あざ作っていて、そんなもんか、と納得感があったわけです。
毒性のわかりやすい家族が多かったので
「どうして私だけがこんなひどい目に合わなければならないのか」
と思い悩まずに済みました。
また、綿々と受け継がれた確固たる価値観、つまり「枠」の中で、必要以上に進路や結婚などの多様な選択肢に溺れずに、生きることができました。庶民は諦めがデフォルトでしたから、夢を見すぎずに済んだのです。

虐待、という言葉も一般的ではありませんでした。虐げる行為と、しつけの境界線は、親または家長が決めるものだったからです。
別の価値観のもとに生きる他人が、外からやいのやいのと口を出すことではありませんでした。

家の価値観の中で生きるということは、自由至上主義となった現代から見ると不幸かもしれません。その時代に生きる者にとっても不自由だったでしょう。しかし現代人は
「制限のない自由を知ることこそ真の不幸」
という考え方を持たせてもらえない不自由については、どうも無自覚なようです。

祖父母世代もいろいろで一概には言えませんが、発達障害児に限らず、古の富裕層子育てや現代のスタンダード子育ては、親が子供に、制限のない自由と権利を与えてしまいがちです。脳は育ちますが、インテリ親の子では、脳の育ち過ぎの弊害が出ます。

親世代が一生懸命に自己肯定感をと願い、お子さんファーストの生活をしているのを見て、やりきれない思いを抱くのも、無理はありません。
叱らないことをひたすらに良かれと思ってデスマーチに突入していく、大切な子供夫婦と孫…の姿、見たくないのは当然です。祖父母の懸念は結構当たります。

価値観の違い

姑不在の核家族で、産休育休をとり、夫も社会も家事育児協力して当たり前だという世論を当然と思い、子どもを園に預け、金と経済力とキャリアと婚家からの自由を手にしたが、姑の代わりに子供に抑圧されている、現役育児中母親の価値観。

同居の姑にきつくダメ出しされながら、家の価値観の中で地位を確立していった祖母の価値観。

子育て方針は、価値観の究極型です。一致するわけがないです。

価値観は一致させればいいってものではありません。
価値観は、コレクションカードに似ています。
似ているカードも、違うカードも、集めて、眺めてみましょう。何かが見えてくるのではないでしょうか。

おばちゃん断言したくなるとき

はっきり申し上げます。

幼児期につく「発達障害」と、25歳30歳過ぎてつく「発達障害」は、名前こそ同じですが診断の意味することが大きく異なります。

一般に言われる「発達障害は一生なおらない」というのは、後者のことです。
幼児期学童期は、発達障害と言っても飽くまでも予備軍のおそれがある、程度にすぎません。

挫折と克服、誤学習克服方法等の心理テクニックをインストールし、適切な成長が促されれば、問題なしとなることも当然あります。
(そのために、ノンストレスで育てた場合の知能最大値より少しばかり削る必要があるかもしれません。知能と本能が脳内リソースを食い合うことは忘れずに)



支援や医療の現場でこの「二つの発達障害」の大きな違いを明確に説明するケースは多くありません。

公費で知的な習い事をさせることが簡単にできたり
「発達障害は親のせいではない」
というパワーワードが浸透してきたことにより、発達障害であるという診断を欲しがる親が増えました。

医師としては、将来
「見落とされた!支援が受けられなかった!損害賠償請求だ!」
となることは避けたいです。

このような事情により「発達障害児」が加速度的に増えました。


語弊があるかもしれませんが、子どもの発達障害という概念が持つあやふやさに近い概念として、「低身長」があげられます。
それ、障害じゃないでしょう?個性でしょう?そもそも、まだ伸びるでしょう?伸びない前提なの?遺伝的障害だとでも言うの?じゃあどっちの家系のせい?
…こう仰る祖父母世代は多いハズ。それは無知だから、ではありません。実際に「発達障害」という概念が新しすぎて、また、いい加減すぎるのです。
祖父祖母世代に限らず、「発達障害」に対して、なんとも表現しようのない違和感を抱く人がたくさんいるのは、当然です。

続きます
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